うちに来るお客様の殆どが脱力することが苦手、というよりどうやったらいいのかわからないと困惑する。
腕や足をパタンと落とす動作で脱力を体感してもらうんだけど、無意識に力が入ってしまって、あれ?あれ?なにこれ~?となる。
自分の意志にからだが反応しなくてぎこちない動きはちょっと滑稽で、時にはお客様と二人で爆笑してしまう。
みんな力を入れる方向に意識を向けることに慣れすぎてしまって、力を抜く方向がわからなくなってしまっているんだよね。
筋トレブームで筋肉量が増えることが健康にいいということが世間一般で言われているから、意識して行うことはみな力を入れて、の方向でしかない。
筋肉量は目に見えるが『脱力』力は目に見えない
からね。
「目に見えない=役に立たない」は
今の社会システムの中では
「成果結果が出ない=意味がない」
に自動変換されてしまう。
からだという自然に向き合っていると、これがいかにいのちの働きに反しているか良くわかる。
常に限界ギリギリにチャレンジしている一流のアスリートは『脱力』力が高いはずだ。
そうでなけば故障ばかりで結果を出せないだろうから。
別にアスリートでなくても、普通の人間としての人間力(心身力?)は『脱力』力に比例するのではないか?と感じている。
力を入れて頑張って行く方向はからだを必要以上に緊張させ回復力、レジリエンスを低下させる。
脱力して生きる方向はいのちの回復には必要な方向だ。
病気になったら横になる。当たり前だが横たわることでやっと脱力して養生できる。
施術もガチガチをほぐすことが初級段階とすれば、無意識のからだの反応に自ら気づいて脱力できるように促すのは上級段階。
ガチガチは一旦ほぐさないとからだが無意識に反応するその一瞬をとらえられない。
でもそれはあくまで対症療法で、目指すは自ら脱力できる『脱力』力。
それができるようになれば自分のからだは自分で扱える、からだの声が聞こえるようになる。
これは言葉で言ってもなかなか伝わらない感覚、
からだで感じとる、まさに腹落ちしないとわからない感覚だ。
これをどうしたら伝わるか、悩んだ末に閃いたのが駒funで。。。
締め付け力のあるパンツから全く圧迫感のないふんどしへの転換は肌感覚から緊張から弛緩へ、力を入れて頑張る方向から脱力する方向への転換につながると確信したんだよね。
それはいのちを損なう方向からいのちを養う方向への大転換。
今朝サロンに寄ってくれた人が、
「最近になってやっと金山さんが昔から言っていたことが分かるようになった」と言ってくれて嬉しかったなあ。
言葉は体感を通して深く共有できるようになる。
ワタシは人との関係において常に深い共有、繋がりを求めているんだよ。
体感を伴った言葉はその人そのものって感じがする。
それ以外は何とも味気ない。
ああ、だから社交辞令が苦手なんだな、今更だけど