変わりたいと思っている時は変わらない。変わらなくてもいいと思えたら変わるのだ、というゲシュタルト療法の『変容の逆説理論』。
こころとからだに意識的になればなるほどこの理論の自分なりの意味が深まり浸透してくる感じがしている。
生活の中で起きてくるからだやこころの様々な反応を変えよう変えようと努力しても変われない変わらない。
反応を起こす大元の原因はだいたい普段は記憶として上がってこないからだの領域にあるのだから意識できていないものをなくそうと意識して努力しても大抵虚しい結果となり更に望む状態から遠ざかってしまう。
意識ができることはその反応が起きた時にそこに気づけた時だけだ。
意識できるためには心身の余裕と安心安全な場が必要不可欠。
自分にやさしく、とは心身の余裕と安心安全な場に身を置くことを自らに許可することでもある。
人生の大部分の時間は意識する必要のない自動反応の中にある。
立つこと、歩くこと、トイレに行くこと眠ること等々日常生活の動作一つ一つはこの自動反応の力のなせる技。
長く生き続けていると往々にして自動反応では対処できず違う反応を余儀なくされる事態が発生してくる。
望む望まないかかわらず変容を促される時がある。
その時の痛み苦しみに対してどのように対応するのか、医療でいうなら西洋医学的対症療法なのか東洋医学的根本療法なのか、両者を合わせた統合療法なのか、何もせず過ぎるに任せるのか、どんな方法でも選べる自由が人間にはある。
反応が起きてそれに伴う不快が生じた時に自身が対応を意識的に選べること、変わることを選択したときは自他ともに選んだ方法やその結果に是非正邪の判断をしないニュートラルな状態でありたいなあと改めて思う。
「変わらなければならない」という重圧感や焦燥感は過去のものになり「変わりたければ変わればいいし変わりたくなければ変わらなくてもいい」が今の心境。変わったもんだ!
新しい道に行きたければ行くし、馴染みの道が心地よければそれに留まるのもまたよし。変容とは様々な可能性と選択の自由に開かれている状態を表現する言葉でもある。
今回のファシリテーターはオーストラリアのジャクリーンさん。
今日はあまりの心地良さに講座の中で熟睡しました。横になって寝れたのはじめて。
安心安全が場に満ちていました。