5月の第2日曜日が母の日で花を贈ったりすることが習慣化したのはいつのことなのだろうか。
小学2年生の時、一度だけカーネーションをプレゼントしたことがあった。
その日の情景は鮮明だ。
自分の買い物(当時はシールと柄入り折り紙集めにハマっていた)の帰り道、花屋さんの前で足をとめた。
母の日にカーネーションを贈ることが流行りはじめた頃だったからだろうか、予想外の高値で1本¥150だったのを憶えている。50年近く前のことだから、今から思うと随分高いね。
花屋さんの前で買うか買うまいか迷っていたら売り子のおばさんが「お母さんにプレゼントするの?偉いね、優しいお姉ちゃんだね。好きなの選んでいいよ」と声を掛けてくれた。
自分の買い物でたまたま手元に100円玉が2枚あったからというだけで、もともとプレゼントするつもりでもなく、ついでだから、、、みたいな後回しの付け足し的中途半端な想いだったのに、偉いね~優しいね~と誉められて、何か嘘をついているような、後ろめたいような、いたたまれない気持ちになってしまった。
更に追い討ちかけたのは、渡した時、母が母らしからぬすごく喜ぶ表現(母も感情表現が苦手だった)をしたことだ。
当時クラスメイトとの関わりにいろいろ問題が生じていたことを母は気にしていて、先ずは自ら子供への接し方を変えなければ、と努めていたのを幼いながらヒシヒシと感じていたのだ。
極めつけは他のお母さんに「娘が母の日のプレゼントくれて、優しい子に育ってくれてよかった」的な話をしているのが聞こえてきたたことで、もうどうにもこうにもいたたまれない気持ちになってしまった。
嘘つきが世界に対して顔向けできなくなってしまったような罪深さ。
大げさで笑えるけどあの時の気持ちを言葉にするとこんな感じ。
「こんな気持ちになるくらいならプレゼントなんてしなきゃよかった」
幼心に、本心から何かをあげたいと思わなければ嘘つくことになるから安易にプレゼントなどしない!と決意した瞬間だった。
母の日が宣伝されるようになって、母に感謝の気持ちを見える形で表現しなくてはならないという風潮ができたこと、それは子供のワタシにはすごいプレッシャーだったのだろうと思う。
母の日のカーネーション一つで幼い頃これだけ重苦しい想い出があったおかげなのか、我が家では母の日にプレゼントはない
もちろん他のお母さんが、子供やダンナから母の日にプレゼントもらった、と話すのを聞けば心から、嬉しいよね、よかったね、ちょっと羨ましいわあ、とは思うけど。
母の日が一般化することで、少なからずの子供が母に感謝の気持ちを表現しなくては(贈り物つきで!)ならないというプレッシャーをどこかで感じてしまうんじゃなかろうか。
人に感謝の気持ちを表現する、確かに社会生活の中ではコミュニケーションを円滑にするためにとても有効だと思うけれど、そもそも家族の中でコミュニケーションを円滑に、という意識は必要なのか?
、、、多分必要なんだろうね、仮面家族という言葉もできるくらいだから。
様々な『○○の日』の裏に、本来は純粋だった想いを利用しながら何かしら別の方向に誘導しようとする意図を感じてしまう。
子供は母に感謝なんかしなくていいよ。
母の日だから、といって感謝の表現として贈り物しないと、なんて思わなくていい。
生まれて来てくれただけでこちらこそありがとう感謝だし、一動物として当たり前の営みで、そこに感謝はいらないというか入る余地もない。
幼い子供が自分の欲しいものを我慢してまで、みんながやってるから自分もやらなければとプレゼント用意してお母さんに喜んでもらおうとか目を向けてもらいたいとか意図したとしたら、そのお母さんは本当に嬉しいのだろうか?
わたしだったら自身の中にある何らかの欠落感を子供に反映させてしまっているのだろうか?と自問自答してしまいそうだ。
成人するまでは親のことなど意識に登らないくらいが健全なんじゃないか、と思うからだ。
母の日にプレゼントを贈ってありがとうの気持ちを伝えたい、と本心から思えるのは自らが親になった時なんじゃないかな。
少なくとも自分はそうだった。
残念ながら人の親になった時は母はもういなかったけれど。。。
何かに意識を向けるためのきっかけとして『○○の日』が制定される。
2月14日バレンタインのチョコレート
そこには企業の策略もありそうだ。人間の本音の美しい部分を切り取って社会的常識とセットにするとうまく人をコントロールできる。
企業の策略に乗って(乗せられて)とりあえずチョコあげといて日頃の齟齬に対してお茶を濁しておこう、というのが義理チョコ。
今の時代おそらくどんな小さな組織でも2月14日は義理チョコが飛び交っているだろう。
母の日にこれだけ葛藤があるんだから、自分が毎年の義理チョコにどれだけ葛藤しまくるかは容易に想像がつく。
組織の中にいると息苦しくなってしまうのはきっとこういうところ。
自分の本心からの納得がないと行動に移せない。
みんなやっていることだからとりあえずやっとこう、ができない。
行動するにしても常にその行動の動機の出所に自己チェックが入ってくる。
こういった内面の葛藤は目に見えないから、端からみればただの頑固者、偏屈、融通がきかないヤツだろう。
母の日を楽しみに、大切にしている人がいたらごめんなさい。
人に想いを伝えられる日として記念日を大切にしている人がほとんどだと思うけれど、
自分の中で感じられないこと、納得しないこと、腹落ちしないこと、同調圧力みたいなものに対しては石のように動かなくなったり、無視したり、反抗的態度とってしまう人たち、端からみてなんて自分勝手で人情味がないの?などと感じられる人たちの心の中には、もしかしたらこんな目に見えない葛藤があって、自分でもどうしようもなく苦しんでいるかもしれないよ、という話です。
これこそ『自閉』という言葉の真の意味なんじゃないかなと思う。葛藤は自分の中に閉ざされている。
心理療法の一つ、ゲシュタルト療法にトップドック(勝ち犬)とアンダードッグ(負け犬)という言葉がある。
トップドックは社会的常識や価値観、アンダードッグは自分の本音。両者のケンカが葛藤の原因だがアンダードッグ(負け犬)が最後には勝つ。
自分自身の本当の声を受け入れることができたときにこのゲームは終わる。
周りの空気を読むことと自分の空気を読むことの間に葛藤があること、そこにある違和感、異和感の出所をそれでも大事にしたいと思う今日この頃の世界情勢、、、でも最後には自分の空気を読む者が、アンダードッグ(負け犬)が勝つのだ。
久々に再読中、名著