予想通り強烈な筋肉痛がやってきた。
からだに負担が出るような無理な動きをしたことが原因。足が滑って尻餅をついてしまいそうな怖さでがんじがらめになって、からだを効率的に動かせない、足腰の各部位が協調して動くのてはなくバラバラに動いている感覚があった。
こんなからだの使い方をした後に筋肉痛がやってくることは経験上わかっていた。
足元が不安定な山の雪道をおっかなびっくりな足取りで歩く自分自身に対して一体何がそんなに怖いのか?と問いかけてみた。
怖い感覚に意識を向けていると、
幼稚園の時に椅子取りゲームで椅子に座り損ねてすってーんとお尻を床に打ちつけた時の痛み、呼吸が止まりからだが硬直したあの一瞬が浮かんできた。
あまりに見事な尻餅だったのだろう、周りからどっと笑い声が起きた。その時の場の雰囲気や声、先生の笑いをこらえた顔もはっきり浮かんでくる。
椅子取りに失敗した自分、お尻の痛みと恥ずかしさと情けなさ。泣きたかったけどその時は何事もなかったかのように堪えた幼稚園児のワタシ。
からだの痛みとともこころの痛みも伴ったあの瞬間は未だに鮮明な記憶としてからだに刻みこまれていた。
中学生の時はいたずらな男子の間で、座る瞬間に椅子を引くという遊びが流行った。
見事に不意を突かれて不様にすってんころりんとなって、ここでも笑い声を聞く羽目に。
当時優等生を気取っていたからその情けなさと痛みと屈辱感といったら!
痛みで一瞬からだが硬直する感覚と周りから嘲笑を浴びた恥感覚と。尻餅つきそうな状況になるとからだが瞬時に警戒モードに入り、二度とその痛みを繰り返すものか!と身構える。
先日の山歩きは足元が不安定な上に雪が凍って滑りやすくなっているところも多かったから余計に警戒して全身が強ばり、余計な力が入るのがわかった。
過去の痛みの記憶が数十年たっても今現在のからだに残っていて動きに影響していること、未だその記憶がありありと浮かび上がってくることに驚かされる。
からだの記憶力は半端ない。
からだの痛みもこころの痛みも同じものだ。
痛みの記憶からくる怖れがからだの自在な動きを制限しひいては人生の選択を制限する。
、、、とはいえ制限や不自由さはその反面からだやこころの安心安全を守るために働いてきたものでもある。
痛みの記憶による怖れや警戒心があったからこそここまで生き延びてこれたし、そのおかげで日々人のからだに触れる中で、自ら固めてしまったからだに寄り添える手を持ったワタシという存在の一面を発見することができる。
それは生きる喜びの一つにもなっている。
痛みから目をそらすのではなく痛みを感じる自分という存在を感じながら痛みとそれに伴う怖れと共にいる。
そうすることで痛みと怖れの記憶に自動的にからだやこころがコントロールされるのではなく自らの新しい選択が可能になる。
生きている限り、どんな年齢であろうとも、その可能性はどの瞬間にも開かれている。
そこに気づいていくことが成長とか変容とか言われるものなのだろうと思う。
一緒に同じ山道を歩いた娘とオリーさんには筋肉痛はまったくなし。
靴の造りが足の動きに合っていなかったことも原因の一つと言われた。
新しい、トレッキング用の靴を買うことにした。里山歩きの中で新しいからだに出逢えるといいな。メルレというブランドがワタシの足に合いそう、とのアドバイスをもらった。
心身に残る痛みと怖れの記憶を越えていくには、時には人や道具に物理的に頼ることも大事だ。
一人がんばることを手放して人やモノに上手に頼ること、それが歳を重ねた者の自然なあり方だろう。
一人でがんばることはもうからだがゆるしてくれない。
がんばりを手放し、これまでの人生の断捨離をしていくことは老い衰え萎んでいくことでは決してない。
これまでみえなかった新たな道を選択していく自由が拡がるということだ。
「荀日新。日日新。又日新(まことに日に新たにせば、日々に新たに、又た日に新たなり)」
昔学んだ中国の古典、四書五経の一つの『大学』の一文が浮かんできた。
中国の殷の時代の名君湯王が、この言葉を洗面器に刻み込んで「修身」の決意を日々新たにしたという。。
なんとも新年にふさわしい言葉ではないか!
筋肉痛から遡ってこの言葉までたどり着いたよ!
昔学んだ古典が新たな実感を伴って蘇ってくる瞬間もまた人生の喜びの一つだなあ。
この「新」の言葉の意味を自分なりに探求していた大学生のワタシよ、よくやったね、ありがとう。
※数十年振りに本棚から取り出してみた。たくさん赤線引いてあった。『大学』『中庸』は昔の(戦前?)日本人の必読本だったんだよね。