硬い>軟らかいの法則
今日のお客様は体格のいいガッシリ体型の60代男性。
かなりな強さの刺激を加えてやってたら力の逃れ方逃し方がとてもうまい感じがした。
そこに感覚を集中していたらふっと柔道の受け身の感覚に繋がったので思わず
「昔何か運動やってました?」と聞いてみた。
ホントは「柔道やってました?」って質問したかったんだけどね。あまりに唐突すぎるかなって。そしたらやっぱり「昔柔道を学生の部活動レベルでやってただけだよ」って!
学んだこと経験したことは無駄にはならず全て身になっていて、今この瞬間にもそれが生かされているってわかって何だかすごく感動してしまった。
からだってすごいよね、頭より賢いし記憶力もある。
まあだからこそつらかったこと悲しかったこと怖かったこと不安だったこと悔しかったことも全てからだが記憶していて身になっているという悲劇(時には喜劇)になるのよね。
「今年は暖かくなるのが早かったから例年なら10日くらいかけてゆっくりやる畑の準備を2日くらいで頑張ったから腕や足にきたのかなあ?」という話を聞いていたら今度はなぜか薪割りの動作の感覚が浮かんで来た。
そしたら「耕運機でなく鍬で土を起こしてるからなぁ」と呟くお客様。
あ~、ちょっと惜しかった!
まあ動作的には薪割りも鍬で畑を耕すのも近いかな。
薪割り名人のからだの使い方を言葉で表現すると「からだ全体が統合されて動いてその力が斧の切っ先に集中している、要するにからだの使い方が上手く力の伝達がスムーズ」
「鍬で土を起こす動作も近いものがあるけれど薪割りみたいに木がスパーンと割れないから上手くからだが使えているかどうかわからないですよね、、、」などと話していたら、
一緒に聞いていた娘が
「硬いとからだが正しく反応せざるをえないけど軟らかいとからだがうまく使えていなくても分かりにくい、だから靴底やインソールは硬い方がいいんですよ!」と。。。
確かに!!
軟らかいとからだにやさしく楽な感じがするのはからだがうまく使えていなくても分かりにくいから。間違いをごまかしてくれる、、、それは「悪い楽」なのだ。
それはからだだけにとどまらず人とのコミュニケーションにも当てはまる。
軟らかい優しい言葉だけでは気づかない気づけないことがたくさんある。場合によっては言葉を伝える相手の気づきを阻害してしまうこともある。
硬く厳しい言葉は痛いけど、それを痛いと感じることこそが、そこに痛みがあることを教えてくれている。
からだの痛みは不快で嫌なものだけど実は悪いことではなく「使い方ちょっと違っていますよ」のからだからのサインなのだと思う。
 間違いや勘違いを教えてくれて変わるきっかけを気づかせてくれるありがたい存在でもあるのだ。
それはからだにかかわらずこころの痛みにも通じることなのかも知れない。
心身一如(心と身とは一つの如し)の言葉の意味が一段と深まったいい1日だったな~。
※写真は全然関係ないけど、オリーさんおすすめの靴。靴底の調整もしやすく何より形がいいそう(足の動きを阻害しないという意味で)
スケッチャーズの回し者ではないけれどこのブランドはアタリが多い感じだね。