連日の猛暑から一転、今朝は一時的に激しく雨が降った。涼しく過ごしやすい。
昨日表面が乾きかけ砂埃がペタペタ張り付いているを目にしたらベタベタしたからだ感覚と繋がって思わずシャワー浴びたくなった
人間もだけど庭のちゃんたちも一息ついているだろうか。
今日の空は下層中層上層に雲が出ていてその多様性は眺めていて飽きない。
バスでの移動中だから観察し放題、豊かな時間
下層の雲は灰色がかっていて流れが早く消えるのも早い。
中層の雲は面白い形が多い、止まっているようだがよく見るとゆっくり流れている。
上層の雲は薄く空に張り付いて動かない感じ。
秋になるとよく見られる雲だ。
だから「空高く馬肥ゆる秋」なんだと妙に納得。
夏の太陽は眩しくて直視すると目が痛くなってしまうけれど今日は雲が何層もかかっているから観察できる。
ぼーっと眺めていたら子供の頃色の濃い下敷き越しに太陽をじっと観察していた感覚がよみがえってきた。
雲による絶妙な隠し具合で太陽の輪郭がくっきり見える。
遮るものがあってこそ、その姿を垣間見て認識できる、それは太陽でもわたしたちの奥深くに存在する太陽(わたしたちを生かしている存在のエネルギー、光、魂とも呼ぶべきもの)も同じなのだ、、、という気づきがやってきた。
地球が水星や火星のように雲をそこに生じさせる空気の層で覆われておらず丸裸でいたならば、今の多様な生物が存在する場所にはなり得なかった。
太陽が雲で覆われるように、マインド、自我という雲に覆われて光が見えないことが苦しみの原因になり得るのだろうけれど、わたしという地球には時には日陰を作り時には雨をもたらす多層多彩な雲が必要不可欠。
明けない夜はない、と同じように、
流れない消えない雲はない。
光を覆う雲は生成流転している、変化して流れていつかは消えて行くものという自らの認識と地球の認識とが繋がった感覚。
人間は小宇宙というけれどその前に人間は小地球でもあるのだ。
連日の猛暑がなければこの感覚はやって来なかっただろうね、まさに差があるからこその気づき、さとり(差とり、覚り、悟り)だ。
学生時代に戻るとしたら夏休みの自由研究には雲の研究をしたいな!
子供(孫?)と一緒に雲を眺めているシーンが思い浮かんだからいつか実現するでしょう。