仕事で何が楽しいかっていうと、施術前と施術後の変化だ。
一言でいうと「光」が出てくる。
発光を見るのが楽しいしその人の本質がそのまま現れて美しい。
光はいのちの輝きそのものだ。
いのちがからだに気づいていく、いのちがからだを認知すると認知されたところに光が通る。通電ならぬ通光だ。
その姿を目にすることでワタシにも光が通る、通電通光する感じ、ゾクゾクするよ。
いのちの光の仲介人、お仲人さんのような感覚になる。
からだだけ扱っていても根本からは変わらないことに気づいてこころを学び始めて分かったことの一つは、自分自身が体験して感じて考えて腹落ちしたものしか人には提供できないのだということだ。
起きた出来ごとや痛みを誤魔化すことなく正当化することなく、透明な曇りのない目で見て感じ考えどのように腹落ちさせたか、そこの純度が人を癒す光に変わるのだと思う。
先日自分がなぜこの仕事を始めたか、を振り返って言葉にする機会があった。
話していて前半生での出来事がそのまま今の仕事に繋がっていることを改めて感じることができた。
オセロゲームでは黒(白の場合もあるか)は白に変わる布石だ。黒歴史あればあるほど白にひっくり返える醍醐味を味わえるというものだ。
今の仕事を通じてまさに黒を白に変えていく醍醐味を味わっていると思うと、本当に感慨深い。
今現在不調だったり苦しみの中にいたとしても、真っ暗闇の中にいると感じていても、生きてさえいれば黒は必ず白に変じるのだ。
いのちは変化しバランスをとりながら常に止まることなく流れてゆくものだからだ。
流れを感じられなくなった時にこころもからだも病むのだと思う。
自分のこころやからだへの「認知症」になっている人に一番効く施術は「痛気持ちいい」施術だと思う。
固くなってなかなか空かないビンの蓋を開けるにはお湯で温めてみたり、角をトントン叩いてみたり、手が滑らないように輪ゴム巻いてみたり、いろいろ工夫をするけれど、でも最後は力をグッと入れてねじ回す動作が必要だ。
最初に足湯でからだを温め、通りが良くなるように水を飲み、骨共振するマッサージ器機でからだを振動させてから手でマッサージするという、施術の一連の動作は長い間開けずにおいて固まって開かなくなってしまった蓋を開けるやり方そっくりだ!と今気がついた
天の岩戸開きにも似ているかも!
誰の中にもあるいのちの光は神そのものだもの。
人間関係も表面を温めるだけだったりトントン叩いて様子見るだけだったら一緒にいてもつまらないと思う。
どこかのタイミングで蓋にグッと力を込めて開けてその中身を見たいし味わいたいと思う。
施術のやり方一つとってもどのように人と関わりたいのかが表れているよね、おもしろい。
世の中を見回すと、表面をヌルヌルナデナデサワサワするだけの、気の抜けた施術(エネルギーワーカーさんをディスっているわけではないよ)みたいな関係性の方が社会性や常識があると言われているように思える時がある。
ワタシは自分が施術受ける時もイタギモがいい。
人間関係もイタギモがおもしろい。
痛みの向こう側には気持ちよさが透けて見えるから。
縮こまっていたからだの組織やこころのこわばりが伸ばされていく痛みは可動域が広がってもっと自由になっていくことを予感させるから。
、、、ということはヌルヌルナデナデサワサワでは物足りない、イタギモ好きで中身に触れたい、味わいたい、自由自在になりたい、という人がマーケティングでいうターゲット顧客というものかなあ。
ターゲット顧客=自分自身
自己探求=他者探求
となったとき
ライスワークはライフ(人生)ワークになりライト(光)ワークになるのだろうか。