朗読の次は立って場面ごとに動作を確認していく。演劇でいう立ち稽古。
自然な流れでワタシの役はよだかを追い詰める鷹になった。
よだかの家はどんなところか、鷹はどの位置からよだかに話をしているのか、一つ一つ確認していく。
同じ樹の枝にとまっているのかそれとも上から見下ろす位置にとまっているのか、それだけで声の出し方が変わってきて、どんどん鷹の気持ちに入り込んでいく。
「オレ様と全く違うくせにお前なんぞが鷹の名前をもらっているのは本当に許せん!」
そんな気持ちになってくる。
更に鷹の羽ばたき方の動作、鷹の大きなからだを中に浮かせる羽ばたきはどんな感じか、からだを使って確かめていく。
肩先から腕を振ると全く鷹らしくならない。肩甲骨から大きく動かないと大きな鳥の羽ばたきにならないのだ。
無心に羽ばたきの動作をやっていたら、鳥だったときの記憶がよみがえってくるような気がした。
肩甲骨周りは自分でほぐすのは難しいんだけれど鷹の羽ばたきをしたら随分柔らかくなってほぐれた。
演劇で体が整う体験ができるなんて思いもよらなかった。
よだかを追い詰める鷹をなんて理不尽なイヤな奴だと以前は思っていたけれど実際に鷹になってみると「そりゃイヤだよなあ」と思えたのは不思議な感覚だった。
鷹には鷹のプライドがあったのだ。
そしてお日さまや星たちは無関心だったり、冷たかったり、なんて的外れなアドバイスするんだろう、と憤然としていたけれど「そりゃそうだよなあ」とやはり妙に納得してしまった。
よだかの星の世界がかわいそうなよだかの物語、ではなくもっと広い大きな枠組の世界の物語にみえてきた。
立ち稽古の後のシェアでこんなことを話した。
今までの認識していた世界が崩れて新しい世界が現れてきたような感じだった。
自分と世界との関係性が再構築される、それはとてもとても豊かな得難い体験だった。
よだかに対しても全く違う姿が見えてきた。
鷹とのやり取りからみえる愚直なほど真っ直ぐな受け答え、ごまかすことを知らない実直さ、ひとたび思い込んだら人の話も全く聞き入れない頑強さ、生きることは他のいのちの犠牲の上にしか成り立たないという、誰もが知っているけれど見てみないふりをしているこの世界の矛盾に真正面から苦しむ純粋さ、、、なんだかアスペ気質の特徴のように思えてならなかった。
周囲になじめなかった子供のワタシはよだかに自分を重ねていたんだなあ。
よだかの星はアスペの星かもしれないね。
みんなから嫌われ、昆虫を食べなければ生きていけない自分に苦しみ、頼った星からも相手にされず絶望の末に死んだよだかなのに、なぜ最後笑っていたのか、星になったのか、今でも光っているのか、子供のワタシにはよくわからなかった。
でもそこにワタシの生きるということへの答え、希望があるんだろうことは感じていたのだ。
そしてそれがワタシをここまで生かしてくれてきたものだった。
この部分は今はまだうまく言語化できない。「絶望と希望の物語」の希望の部分をこれからの人生で味わい言葉にしていくのだろう。
宮沢賢治の描く物語は目で追うだけではわからなかった豊かな世界が、声に出すこと、からだで表現することで表れてくる、それはまるごといのちの物語だからなのだろう。
琵琶湖での3日間は時間と空間を飛び越えた極上ないのちへの旅だった。
一人一人が自身のからだとこえといのちに出逢うこと、人と人とが本当の意味で出逢えるのはそこでしかないことに改めて気づかされた極上のワークショップでした。
感じる世界を言葉にするのはとても難しい、文章にできたのはほんの一部です。
瀬戸嶋充さんのワークショップ、整体師としての立場からも絶賛オススメします。からだとこえが変わると自分と世界との関係性が変わるという体験をぜひしてみて下さい!
安心安全な場の雰囲気と、ほどよい距離感がとっても心地よかったカエルアケミでした🐸🐸
これで終わり。
ああ~スッキリした!
言葉はある意味うんこ💩だと思う。ライブ体験こそが極上の食べ物であって、こうして後から書いた文章は味わって消化した後の排泄物でしかない。
それでも出さずにはいられない。
その中から得た栄養はこれからの仕事に生きてくることを確信しています。
※琵琶湖にいたトンビ