流れる涙とともに浮かんできたのは泣きたい状況になればなるほど息を凝らしてからだに力を入れてじっと固まっている子供の姿だった。
ああ、ワタシは泣かない子供、泣けない子供だったなあ。実はとても感受性が強くて涙もろかったのに、感じてこころが動いて涙が出ることをどこか恥ずかしいこと、罪深いことのように感じていたのだ。
泣いてしまったらこの世界の残酷さを、生きるということの罪深さを認めてしまうようで怖かったのだ。
父も母も泣きたいのを堪えながら、泣きたいと思うことすら封印しながら生きている、そんな姿を感じてしまうこと、認めてしまうことがつらかったのだ。
涙をこらえようとすると顔がひくひくして泣いているんだか笑っているんだかわからない顔になる。
父が泣いている姿を一度だけみたことがあった。最初笑っているんだと思った。
嗚咽はクックックという忍び笑いに似ている。
ワタシの泣きかたは父に似ていると思った。
声を腹から出すワークをしていた時にわかったことがある。
腹に力を入れて(横隔膜を動かして)大きい声を出そうとすればするほど喉に力が入ってしまう。
まるでうんこ出したいのに肛門しめながらふんばっている感じ。
瀬戸嶋さんの的確なアドバイスで喉の力が抜け、横隔膜の動きと共に腹からの声がどこにも邪魔されずに真っ直ぐに外に出ていく快感を味わった。
頑張るってツラいものじゃない、自分の力を思う存分に発揮することは楽しく気持ちいいことだったのだ。
昔からそんなにむきにならなくてもいいよ、とか力まなくてもいいよ、とか言われることが多かった。
言われれば言われるほどどうしたらいいのかわからなくなった。
肛門しめながらふんばっている姿は端からみればどこか滑稽だったんだろう、一生懸命になればなるほど笑われたりからかわれたりしてたなあ。
頑張る方向、というか順番が間違っていたんだな、と今ならわかる。
そのことを言ってくれていただけなのに、自分の頑張りを全否定されているように思い込んでしまっていたんだなあ。
まずはゆるめてから、開いてから思いっき力めばよかったのだ。
どおりで小学生でヒサヤ大黒堂のお試しセットを秘密裏にお取り寄せするほどの痔持ちだったわけだ!
子供の時に抑え込んだ涙は固まって氷になってからだの固さや冷えの症状、からだの使い方の癖、その後の様々な病気やからだの不調の原因となっていったのだ。
感情はエネルギー、抑え込むとからだやこころの不調の原因となることは十分にわかっていたつもりだったし仕事の中で人にも話したりしてきた。
でも本当の意味でそこを理解するためにはワタシのからだの奥にある氷が水に変わって流れて行く必要があったのだ。
『よだかの星』に感じていたヤバい感じはダムが
崩壊するかもしれない、いや壊すことができるかもしれない、という予感だった。
それこそがワタシが求めていたもの、自分の中にあるどこかニセモノっぽい感じを払拭できるもの、人には分かったふうに言っておきながら、実は自分が一番触れること触れられることを怖れている部分だったのだ。
「からだ」と「ことば」が呼び水となってワタシの中で固まっていた部分の「いのち」が解けて流れ出したのだった。
、、、つづく
※夜明けの琵琶湖
一日の中で全く違う表情を魅せてくれる