新年あけましておめでとうございます。

平成30年の始まりは穏やかな陽気が続いていて今年一年を象徴しているかのよう。とかく暗く不安なことが話題になりやすい世の中ですが、自然豊かな環境の中でテレビや新聞と縁遠い生活しながら日々淡々と暮らしていると、それがどうした!といった大らかな気持ちになります。

ヴィクト-ル・フランクルの『夜と霧』、折に触れて思い出す名著ですが、どんな状況にあってもそこに意味を見出せるのが人間の人間たる所以、何があってもそこに意味と希望を見出す能力が人間力であるとするならば、年を重ねて経験を重ねれば重ねるほど人は幸せ感が増してくるのが健全な状態なのではないかと思います。だから「何があっても大丈夫!」のお気楽人間に健全に発達成長しつつある(笑)ことは喜ばしいことなのかしらん(周りの迷惑を考えろ!!の声がどこからか聞こえてきたような、、、まだまだ究極のお気楽には程遠いな、、、(◎_◎;))。

年を重ねる、とは年を取るということ、特に日本は年齢が上がることで不利になると感じている人が多いように思います。女性が年齢を隠したがる傾向も強いです。加齢、老化、高齢者といった言葉にどこか暗い影を感じさせる社会は健全な社会ではない、効率優先や目に見える若さだけに価値が置かれ、年を取ることが大事なものを失っていく過程と感じるならば病気、特に認知症が激増しているのもうなずけます。

お客様からは若い時のように動けない、情けない、という嘆きをよく聞きますが、価値基準が若さや効率にあるとするなら、嘆きは年ごとに増し、その感情がからだに影響しないわけがない。年を重ねていやおうなしにその価値基準を手放していくことを学びながら、手放す過程の中で感じることや、手放した後に残るものに何を感じるのか、そこを誠実に深めていくことが智恵とか叡智とか呼ばれることで、年長者の価値が置かれる部分なのでは、と思います。

新しい年を迎え年を重ねるごとに、智恵を深めていきたいという思いが募ります。そしてその智恵が自分だけでなく周りにも貢献できるものでありますようにと願います。

認知症という病は年を重ねることへの不安、若さを失うことで役に立たない存在になることへの怖れが根底にあるのではないか、そしてそれは当事者だけではなく社会全体の意識なのではないか、、、

……ここまで書いてきて病気や認知症に対してマイナス判断している自分にハッと気付きました。からだに現れる症状には意味がある、どんなに不快で深刻な状況であろうとも、なるべくしてなっている、という視点からみたら病気や認知症は私たちがあるべき姿を示してくれる状態の一つにしか過ぎないのかもしれません。困るのは当事者というより周りですしね。

来年は身の回りで起こる出来事にどんな意味付けができるようになっているんだろうか、来年の新年には更に成長した自分に出会えるように、この一年を誠実に生きていきたいと思います。

とりとめのない文章、
読んでくださってありがとうございます。

皆さま今年もどうぞよろしくお願いします。

ブログ更新も夏からしていなかった(´゚д゚`)今年は昨年よりも記事数増やすのが目標です。💪💪💪