「気持ち」が分からないとは、ある一定の枠組みの中での反応パターンが分からないということ。気=エネルギー的には感じ過ぎるほど敏感なところから困惑が生まれるという話
よくアスペは人の気持ちがわからない、共感力がない、といわれるが、「気持ち」の中身というか定義がそもそも違っているのでは?と感じている。
子供の頃の記憶で未だ鮮明なのは、幼稚園、小学校、中学校の先生たちの「気持ち」に関することだ。
私の登校拒否傾向は既に幼稚園から始まっていたが、なぜ幼稚園に行きたがらなかったかといえば、一つは先生の「気持ち」やお友達の「気持ち」が体感覚で感じられ過ぎて辛かったからだ。
先生たちだって先生である前に一人の人間であるから不機嫌な時があって当然、と大人の今なら分かるけれど、子供の頃は「気持ち」が不安定というか、制御されていない人と一緒にいることは、整備不備な飛行機や車に乗っているような感じで心もとなくて常に緊張していた。
その不快感はからだ感覚を伴っていて、例えて言うならば、布団でくるまれて締めつけられているような感じだったり、静電気でビリビリチクチクしている感じだったり、、汚いヘドロの海に投げ込まれて息するのもやっとやっとな感じだったり、爪でガラスを引っ掻いたキーッという音みたいだったり、とにかく不快で苦しくて逃げ場がない感じ。。。
こうした感覚は共感覚、エンパス、HSPといった言葉で説明できることなのかもしれないが、要は目に見えないエネルギー的なものにとても敏感だったということだ。
不登校になってしまう子供たちの中には、こうした怖さ、不快さの感覚がどこかにあるのではないかと思う。
人の発するエネルギーに敏感で感受しちゃうからビクビクしていてそれが違和感醸し出していじめの対象になってしまったりするのかもしれない。
子供だから言葉で表現できないしね。
不機嫌な先生は怖い。
怒ってる先生は怖い。
不機嫌なのに笑顔をつくっている先生はもっと怖い。
先生がどの子が好きでどの子が苦手か、なんてこともわかっちゃうので辛いし気持ち悪い。
先生が私のことをどう扱ったらいいか困惑している、なんてことまで瞬時に感じとってしまうような子供だった。
これは学校の先生をはじめとして身近な大人たちに対しても常に感じていたことだ。
気持ちや気配が分かりすぎる、多分その「気持ち」は本人も意識に上っていないような無意識、反応的なエネルギーで、子供心になんとかしようとするものの、それにどう対応していいのか分からないからフリーズしてしまうのだ。
自分が感じすぎてしまうことが人を困惑させることだ、という感覚は物心ついたころからずっとあって、それが一人でいた方が気楽な理由でもあった。
それが言葉にならないから、一人になりたがる理由の表に出てくる表現は「行きたくない」になるのだ。
表に出てくる「行きたくない」の言葉がどんな感覚から来ているかなんて、わからない大人が「みんなと一緒にいられる方が幸せよ」となんとか行かせようと説得する。
その「幸せ」も枠つきの幸せなわけで、この「幸せ 」に違和感あって、それが苦しいと感じてしまうような子供だったのだ。。
一人でいるときと、鉱石や植物や動物といった自然物と共にいるときが一番安心安全で落ち着く感じがした。
アスペのいいところとしてよく挙げられるのは嘘がつけない、つかない、率直で正直な人、だが、それは裏を返せば本音と建前が使い分けられないことであり、相手が自分の言葉にどう反応するか、気持ちの反応パターンが読めない、ということでもある。
「人の気持ちを考えて言葉や行動には気をつけて」と諭されてもその「気持ち」(大多数の反応パターンのソフト)がそもそも同じでないので更に困惑することになる。
後に残るのは強い自己否定と自己不信ばかりで、これが大人になってからも生きづらさを感じる一因となったのは間違いない。
つくづく裏表や矛盾がない自己一致している人が安心安全な、成熟した大人だな、と思う。
自分のいいところも悪いところも含めて自己受容している人は側にいても大丈夫な感じがする。
相手が相手のままでいることを受け容れてくれるから、「気持ち」を考える必要がないから楽なのだ。
以前自閉症傾向ある人は、炭坑のカナリヤだ、と書いたことがあった。アスペを含めた自閉症的脳を持つ人たちが生きやすい組織、社会は間違いなく自己一致度が高い人が多い組織、社会だという意味で。
人や組織、社会の成熟度を測るリトマス試験紙みたいな存在みたいに感じる。
一人一人が感じることを一つの決まった「枠」に収めようとするのではなく、それぞれをそのまま受けとめて受け容れることが当たり前、という風になったらどんなにいいだろう!
みんな同じように、ではなく、私もいいけどあなたもいいね、互いの違いを認め合い一人一人が尊重され生かし合う成熟した大人な世界だ。
一人一人が取り繕った枠の中で息を圧し殺して生きるのが「成熟した大人」ではなく、それぞれのいのちの光を存分に発現してお互いを生かし合い、照らし合って行くような、そんな世界はどんなに美しいだろうか。
一つ一つの美しい光が重なりあって更に美しい光を放って輝いている世界をいつも夢みている(というかはやくそこに帰りたい、と思う。。。)
重度の自閉症である作家の東田直樹さんが
どうして人に挨拶ができないのか、という質問に対しての回答した言葉にはめちゃくちゃ共感した。
「僕には人が見えていないのです。
人も風景の一部となって、僕の目に飛び込んでくるからです。
山も木も建物も鳥も、全てのものが一斉に、僕に話しかけてくる感じなのです。
それら全てを相手にすることはもちろんできませんから、その時、一番関心あるものに心を動かされます。
引き寄せられるように、僕とそのものとの対話が始まるのです。
それは言葉による会話ではありませんが、存在同士が重なり合うような融合する快感です。」
東田直樹『跳び跳ねる思考』より
「存在同士が重なり合い融合する快感」からしか、本当の意味で環境を大切に、とか、地球に優しく なんて発想は出てこないんじゃないかと思う。
もともと人間も自然界の一部だからこの融合が快感の感覚を誰もが持っているはず。
人間もその他大勢の自然界のものたちの一部であってそこに優劣もなく優先順位もない。操作や枠もない。枠や操作なしに直に触れ合う快感を思い出すことこそが大切なんじゃないかと思う。もともとあったのにだんだん退化してしまったこの快感を。
自閉症感覚こそが地球を救うのかもしれない。
そういえばアスペルガーに適した仕事として
植物や動物に関わる仕事、飼育員、調教師とかあったなあ。
今回もまた「跳び跳ねる思考」的な文章、これが分りやすい、という人がいたら同じ種族かもね😁