朝何気なくfacebook眺めていたら、この言葉が降ってきた。
こころの学びの仲間の自己開示の文章が私自身の深いところに刺さったのだ。
私の言動のパターンとして、
「私を愛してくれているのか確かめるために相手を試すようなことを無意識にしてしまう」がある。
美味しそうなエサを(一般的に価値あると思われているもの、お金とか)罠に仕掛けてそれに対して相手がどうするのか様子をみる。
自分のことを認めてくれる人にほどそれを無意識に仕掛けてしまう。
その裏にあるものは、言葉と想いが同じであって欲しい、という切なる願いと、何にも持たない無一文、無才能の私でも愛してもらいたい、という希求。
それがどこから生まれてきているのか、普段はあまりに痛くて苦しくて、感じたくないから無視して無感覚にしているところが存在している、ということを目の前に突きつけられた。
わたしには自分の存在そのものに深い無価値感と罪悪感があるのだ。
「こんな(何ももたない、無価値な)わたしでも愛してくれますか?」
この問いが深い無意識レベルにあって現実の言動をコントロールしている。
相手がどうのこうのではないのだ。
この問いを持ってすべて自作自演の現実ドラマを演じている。
いい人仮面を装いながら水面下でこんな熾烈な(自分だけの)生存競争が展開されているのだ。
これがどんな状況下で生まれてきたものなのか
、長い間自己啓発、自己探究の学びをしてきて、頭ではわかっていたつもりでも、それがハラに落ちる、自分事になることとはまたべつの次元のことだなあ、と今朝はつくづく感じたよ。
「これまでよく生きてきたよね」と声をかけてもらったことは何度かあるけれど、今日は自分が自分に「よくがんばって生きてきたよね」と声をかけてあげられた。
涙がたくさん出ました。
一滴一滴とコップに水がたまって溢れる時がきているのかな。
気づきはいつも人を通してやってくる。
誰かの発する言動、表現が、自分の思いものよらないところに染み込んで麻痺していた部分を教えて気づかせてくれる。
ありがたいな、人の間と書く「人間」という言葉の意味がまた私の中で一つ深まりました。
でもこれがあるからこそ、わたしはわたしであり、あなたがあなたであるんだよね、「人間」って本当に面白くて愛しい存在だと思う。