世間はコロナ騒動で大騒ぎ。テレビがなく流行に乗れないワタシはトイレットペーパー買い占め騒ぎも大分後になって知った。
金山家のトイレットペーパー在庫管理はワタシではなくダンナの管轄である。
以前はワタシの仕事だったのだが、ワタシの危機管理能力のあまりの欠如に危機感を覚えたダンナがネットで1年分位をまとめて注文して宅配してもらっている。
お金関係なども結婚当初からダンナの管理で様々な税金関係や資産運用等もやってもらっている。
ワタシは金山家に一体とれだけ資産があるのかもよく知らない、あまり興味がない。
なんとかなると思っている幸せなお気楽者だからだ。
トイレットペーパーに対してもなければないでなんとかなる、と思っているので、そういう「あり方」がダンナに危機感を抱かせているのは間違いない。
ワタシ一人だったらトイレットペーパーがきれたら新聞紙とか不要な衣類を布にしてしばらく使うだろう。
危機的状況がくると俄然張り切って如何に工夫して乗り越えていくか、にすぐ意識が向く。
お金に関しても無いなら無いでお金を使わないで生きていける方法を工夫することを楽しんでできることに自信がある。
以前毎月10000円で生活できるか、というテレビ番組を見たことがあるが、「楽しそう、やってみたい!」と思ったものだ。
ダンナに言ったら、一人でやれ、と冷たく返されたっけ。。。
つくづく(変態的)挑戦者、チャレンジャーなのだと思う。
いま現在、トイレットペーパーやお金に困ることなく家族全員快適な暮らしができていることはダンナのおかげ、なかなか面と向かって言えないのでこの場を借りて感謝しておこう。
(言っても、当たり前のことを何を今更言っているんだ?と返されるのが目にみえている😁)
コロナ騒動のおかげで当たり前に思っていたことに改めて感謝できることは幸せなことだと思う。
、、、最近「学ぶことの方向性」について考えている。
歳をとって記憶力も低下してボケっぽく
からだのやっていることにアタマが後からやっとやっとついていく感覚、アタマ、思考が後からからだがやったことを解析意味付けする感じになっている。
若い時の学びの仕方は逆だったと思う。
アタマが考えていることにからだが従っている、というか無理に従わせているような感覚があった。
学校でのテスト勉強や受験勉強は間違いなくこの方向だ。
この方向を極端にやり過ぎてからだが従わなく(従えなく)なった結果が不登校、登校拒否だったのだ、と今ならわかる。
からだを通さないアタマだけの学びのことを『勉強』というのだ、と今気がついた💡
中国語の『勉強』という言葉は、いやいや、無理矢理、しぶしぶ、嫌なことを強いる、的な意味合いだ。
親はよく子供に「勉強しなさい!」というが、厳密に言うならば「嫌なことを我慢して無理矢理しぶしぶ嫌々やることを学びなさい!」ということになる。
よくよく考えてみれば恐ろしいことだ。
春休み中子供には「勉強しなさい!」ではなく「学びなさい!」と声がけしたらどうかと思うがいかがだろう。
「勉強」と「学び」の方向性の違いについて、からだとアタマどちらが主体になっているか考えることははすごく大事だと思う。
知識や経験が知恵に熟成するかどうか、腐敗して悪臭を撒き散らすのか、発酵して芳香を漂わすのかは、その知識や人生経験がからだを通して熟成されているかで左右されると感じるのだ。
最近感じる、からだがやっていることにアタマが後からついていく、この感覚はとても興味深い。
同じ事をやっていて飽きることがない。
仕事の中で(仕事に関わらず、生活の中で)自分自身と出逢う感覚、成長を感じる感覚、深まっていく感覚、豊かになる感覚、全てが自分の内側から生まれてくる。
この感覚はこれは歳をとればますます豊富になって行くのだろう、という予感がしている。
歳を重ねることは、物質的なからだが衰え、今までできてきたことができなくなってくる過程を通して、新しい解釈、新しい価値を創造していくことに創意工夫し再挑戦できることなのかもしれない。
歳をとることで失われていくのは
筋力、吸収力、記憶力、回復力、根気力、我慢力、集中力、執着力、抵抗力、免疫力、、、等、
アタマの働きや物質的からだの働きが失われていくことによって得られるコインの裏側を考えてみることはとても面白い。
逆に成長中なのは
排泄力(からだやこころにとって不要なものを出せる力、くしゃみすると「しまった!」となるのも含まれるのか?😅)
忘却力(直ぐに忘れるので今を生きれる、悩み少なし)
中性力(男女の別を越える感覚、人を人として向き合う力?昔から男女雑魚寝は気にならなかったが、、😅)
工夫力(失われるものが多くなればなるほど補うことを考えられる)
統合力(物事の両面を同時に見る力、二元性を越えていく力)
等々。
もっと厳密に観察すれば言語化できるものはいくらでもありそうだ😅😅
自分のからだを通して老いの豊かさを言語化していくのは楽しい。
人間の一生を受精の瞬間から死に至るまで、超早送り映像で見たことがある。
一つの卵子が2つに分割し更に4つ、8つ、16、、、と倍々になりながら、あっという間に増えて心臓目や鼻、耳や口、からだの器官ができていく様は神秘的で神の仕業をみているかのようだった。
人間の一生は本当に興味深いものだ。
肉体的成長発展(細胞の増殖力、細胞の数)は25歳がピークだという。細胞の死滅数に対して
再生数が追いつかなくなり、全体数が減り始める歳ということだ。女性ならお肌の曲がり角、と言った方が分かりやすい。
平均寿命が50歳くらいの時代ならば成長衰退がちょうど半々でいい具合いだったけれど、今は人生100年時代。
衰退していく期間の方が断然長い。
いのちのやりとりをする合戦の場面では進撃の最前線よりも撤退するときのしんがり(後方)を担う方が難しい、と何かで読んだことがある。
老年期を生きることは多分青年期を生きるよりも覚悟と工夫が必要でスリリングで挑戦のしがいがあることなのかもしれない。
衰退の哲学、老年期の哲学美学がもっと語られて欲しいなあと思う今日この頃。
失われていく若さを必死に取り戻そうとすることにエネルギーを注ぐより、
アタマや体力、若さが衰退した後に立ち上がってくる老人力、人間力にもっともっと目を向けたら面白いのにと思う。
コマーシャル、マスコミから流れてくるものは如何に若くあるか、アンチエイジングを謳うものばかり。
如何に歳をとることが良くないこと、恐れであることなのか、を植え付けてくる。その裏にあるのはもちろんビジネス、お金中心の経済システムだ。
諸行無常、盛者必衰の理(ことわり)は昔も今も変わらない。
動の魅力よりも静の魅力
盛の魅力よりも衰の魅力
外国人が絶賛するワビサビの文化を持つ日本がこれからの超高齢化社会の意味付けを先導していって欲しいと心から願う。
老年期で花開く境地とは?なんてことを流行らせたら面白いよね。老年期で花開く境地こそが人間としての進化の方向ではないのか?と思うのはワタシだけ?
お客さまに介護職の方も多いので介護施設の実態を聞く機会が多い。
介護職員の給与待遇等からも、お金を生む効率性追求型システムから外れた老人に対する今の日本の社会のあり方が見えてくる。
コロナウィルスは高齢者の致死率が高いという。
社会保障、年金制度が立ち行かなくなりつつある今、生産性のない(金を生まない)老人は早めに死んでくれ、という現代版姥捨山としてコロナウィルスは仕組まれたことなのか?などと妄想してしまう。
それに対抗していくには老人は老いの哲学、老年期を生きる意義価値を社会に還元していくことが必要だろう。
一人一人が歳をとるごとにこんないいことがあった!こんなに豊かだった!と認識していくことこそ、コロナウィルスに侵されない、予防になるのではないかと思う。
コロナに淘汰されないためにはワクワクドキドキイキイキと、老人特有の感性全開で
「歳をとるってかっこいい!シブイ!」
「早く歳をとりたい!」と若年層に言われるような年寄りになれるといいよね。
暗い話題ばかりのこの頃、高齢者のコロナ予防策として、歳をとるといいこと、を言語化して教え合うってどうでしょう?
免疫力アップ間違いなし、と思います。