この時期になると決まって蘇ってくる記憶
コロナの影響で世の中は外出自粛が続いている。一人自営業のワタシにとってはあまり関係はないのだが、会社で働いている人にとっては深刻な状況だ。
3月も下旬となれば動植物も休眠から覚めて活動的になる頃。卒業式や入学式、各種イベントも自粛だし、桜も咲くところは咲いてきて遠出したくなる時期なのに、、、といった残念無念が世の中に漂っている。
この時期になると決まって蘇ってくる記憶がある。
何度も死の淵の前に立っても、この世界に留まらせたもの
中学3年になった頃から始まった引きこもり生活。学校にも行けなくなり、1年遅れて何とか高校に入学しても、そこもまた3ヶ月もたたないうちに行かれなくなった。
同級生たちはそれぞれ新たな道に向かって進んでいるのだろうに一人ポツンと取り残されてしまったかのような、人間失格の烙印を捺されてしまったかのような、苦しかったあの数年間の感覚だ。
一番辛かったのが冬から春へ、寒さがゆるんで世の中が活動的になってくるのを否が応でも感じさせられるこの時期だった。
同級生たちはそれぞれ進級、進学して新しい世界に進んで行くのに自分一人だけ何処にも向かえず時間が停止したまま。
一番苦しかったのはなぜ学校に足が向かないのか、行かれなくなったのか当の本人にも明確な理由が全くわからなかったことだった。
最近、この歳になってやっと自分の言葉で言語化できるようになってきた。それほど本質的な存在、あり方の根底にかかわる部分からの「No!」だったのだ。
そんな中でも当時深いところで感じていたことは、この暗闇はいつかは明けるだろう、出口のないトンネルはないのだ、という「根拠なき確信」だった。
客観的にみればお先真っ暗で、からだ的にも摂食障害でかなり危ないギリギリの状況だったし、死んでしまった方が楽になるかな、と何度も死の淵の前に立ったこともある。
でもその度に深いところから微かに響いてくるてくる
「これでいいんだ!大丈夫だ!」という声が私をこの世界に留まらせた。
ギリギリのところで私を生かしたのはこの響きだった。あたまからではない、からだの奥底から聞こえてくる「いのちの声」だったのだと思う。
その後この正体を知りたくて、それに近い言葉だと感じた「氣」の概念を生涯の研究テーマに選び、今も毎日の仕事や生活の中で研究観察中だ。
生きるとは息することでもあり息が出入りすること氣が出入りすることであり、からだの健康とは氣が詰まることなくめぐっている状態のことでもあり、健全な人間関係とはお互いの氣が滞りなく交流しあうことでもあるから、いわば毎日が研究生活😊。
引きこもりの体験は生きるか死ぬかギリギリの綱渡りだったけれどその代わりに得たものは大きくて豊かなギフトだったと振り返ってしみじみ感じる。
感じていたもうひとつのこと
大丈夫という声の他に、もう1つ感じていたことは、「この引きこもりは自分だけの問題ではないのだ」という感覚だ。
自分が学校という社会に適応することに頑張りすぎて疲れはててしまっただけではなく、自分が引きこもることで「どこかの誰かのためになる」的な感覚があったのだ。
この感覚は言葉にすると何だか責任転嫁している感じがして今まで使うのが憚られる感がずっとあったが、人間一人一人が個別の存在ではあると同時に全体として一つの生命体として存在している、という視点から考えた時、しっくり腹落ちした。
働きアリの法則というものがある。
アリの群れでは常に働いているアリは8割で残り2割は働かない。働いているアリだけを集めてもしばらくすると2割が働かないアリになる。反対に働かないアリだけを集めるてもやはり8割が働いて2割が働かなくなる。
仕事の効率からすれば10割が働けばいいように思えるが、2割の働かないアリがいることで逆に集団全体として効率がよく存続できる、という。働かないことが働くことを支えているのだという。
8割のアリが何らかの理由で働けなくなった時のために2割が控えているのかもしれないし、8割の働くアリのために働かない2割が代わりに休んでエネルギーを貯めて補給しているのかもしれない。群れ、組織生命体の生き残り戦略の一環として不慮の事態に備えた最終兵器(?笑)なのかもしれない。
そうそう、テレビアニメ日本昔話の三年寝太郎の物語を見たときは、今はこんな引きこもりの自分だけどいつかは何かの使い道があるのだろう、と励まされたような気持ちになったっけ。。。
朝からこんな妄想をしてボーッとしていたら、長年引きこもり傾向の20代後半の娘さんがいるお客様が突然サロンにやって来て、「何だか最近娘の調子がよくて散歩したり買い物しに外に出られるようになったのよ」、と話すではないか!!
この引き寄せというかシンクロは妄想ではなく事実なのだ、と誰かから言われているような氣がして鳥肌立った。
8割の働きアリの活動が低下した時に残り2割が働きだす。これは人間にも当てはまる?!
コロナ騒動による今の引きこもり状態も、自分が感染しないため、というよりは引きこもることで感染が広がることを防ぐため、つまり「どこかの誰かのためになる」ことでもある。
働き方改革が叫ばれるほど働き過ぎだった8割(厳密に言えば2割が働き過ぎで6割がほどほどらしい)がペースダウンすることで休んでいた2割がかわりに動き出す時がいよいよやってきたのか!そう考えたら面白いではないか。
外出自粛や外国の都市封鎖のニュースを目にするにつけ、40年前の引きこもりの理由がまた一つ解明、深まった感じがしてちょっとした充実感、幸せ感じているワタシである。
世の中はコロナ騒動による経済への影響を心配したり、物資が流通しなくなるかもしれないという不安から備蓄に走ったり、そんな中で一人こんな妄想に耽ってヘッヘッへ~となっているお気楽なワタシはやはり社会の空気を読めない社会不適応者なのだろう。
空気読めない、社会性がないというアスペの特性は逆を返せば空気に影響されない、社会に影響されない特性とも言える。
自分の感覚をベースにして、社会とかかわる、矢印があくまで自分から外へ、究極の自分軸がアスペの強みだということだ。
逆に空気読めて社会性のある人ほど「恐れ」「不安」を読んでしまって身動きできなくなってしまっているようにみえる。
自分自身にそこまで不安や恐れがなくても周囲に配慮して自身の感覚を表明せず、周りの動きを読んで言動を決めている人も多いだろう。
この社会への適応能力の高さが積み重なって連鎖的に一連のコロナ騒動が起こっているようにも感じる。
デマに動かされてしまうというのも、ある意味社会適応能力の負の一面といえるのかもしれない。
社会性への適応能力に欠けるアスペは究極の自分軸、自己信頼の感覚を本来持っている。その感覚はからだと密に繋がっている。
五感の過敏さはその顕れだ。からだと密に繋がっているということはからだという自然と密に繋がっているということであり、すなわちいのちと密に繋がっているということだ。
社会性への適応能力に欠けるアスペが持つ、究極の自分軸、自己信頼の感覚
この感覚を常にONにしながら社会に適応していくことがどんなに苦しいことだったのか、今ならわかる。
社会性を持つ、というのはこの感覚を一旦OFFにすることを求められる一面もあるからだ。
アスペに限らず、人間関係や組織の維持、経済のために誰もが持っているこの感覚をOFFにするようし続けた結果が今の社会にみられるあらゆる問題を生み出していると感じている。
モノが溢れて命の危険はなく表面上は豊かになったのに鬱になる人は増え続けているし自殺者は年間で万単位(コロナの比じゃない!)、引きこもりは社会問題だし、生きている実感、幸せを感じられなくなくて日々死んだように生きている自殺予備軍も少なくないだろう。
この感覚を持ったまま、ONにしたまま、人間の高度な知性が生み出した社会性と共存していく道を見いださなければならない。
社会性の負の一面が暴走することで起きてくる人類への不利益を考える時、アスペの社会性の欠如は社会性が暴走した時のストッパー、人類絶滅を回避するための防波堤とも言えるのかもしれない。
アスペが感じる心地よさ、つまりいのちと密につながっている感覚のまま生きていける世界がコロナ騒動後に実現されることを切に願う、というよりもうすでにそんな世界がやってくることを予感、確信しているのだ。
前代未聞前人未到のコロナ騒動のお陰でやっと吐き出せた感じだ。こんな時だから妄想全開も許されるだろう(しっかり空気を読めているではないか、ワタシ!😏)
アスペ(であるワタシ)はコロナウィルスには影響されない、という「根拠のない確信」はどこから来るのだろうか?自分でも本当に不思議だ。
もしかしてコロナウィルスとは自然とのつながり、一人の人間でいえばからだという自然とのつながりを行き過ぎた社会性によって分断させられている人々への地球(ガイア)から発せられた警告というか、愛のメッセージなのではなかろうか。
五感を通してからだとこころでこの世界の豊かさをじっくり味わう、自分のからだが生かされていることへの感謝を味わいながらコロナウィルスについて考えてみたら、どのように対処したらいいのか、一人一人それぞれの「答え」が見えてくるように思う。
恐れや不安はからだを緊張させて呼吸を浅くし、自律神経が乱れることで様々なからだとこころの不調を引き起こす。
免疫力低下、生命力低下は氣のめぐりが滞ることで起きてくる。
花を愛でたり、匂いをかいだり、背中に春の陽ざしを浴びてまったりしたり、ゆっくり本を読んだり、家で子供とゆっくり遊んだり、ペースを落としてゆったり息すること、氣をめぐらすこと、いま生きていることを感じてみることでからだから響いてくる「大丈夫!」という声に耳を傾けよう、、、。
コロナ騒ぎによって生まれたいつもと違う引きこもり生活の中でもいのちの豊かさを感じて見出だすことができること、それが今一人一人ができることだし、その豊かさの共有こそが真の社会性となっていくことをこころから願っている。
引きこもりの生活はなまけ者、社会不適合者の生活ではなく、人類の存続と進化を左右する一大イベントなのだ、、、というアスペの妄想は果てしなく続く。。。