今回は、アスペはぐるぐる🌀めんどくさい~という話。
注※長くてめんどくさいです!😓
整体師は、実に因果な仕事?
ワタシの仕事は整体師、施術師。
肩こりや腰痛、むくみやだるさ、様々なからだの違和感、不定愁訴に対して、施術しながらそれぞれに合った対応法をアドバイスするのがお仕事。
自身が不調続きだった頃に出逢った気功の先生は、施術しながら「自分のからだは自分で守る」ための原理原則を教えてくれた。
わたしもこんな仕事がしたい!と自分でもビックリするほどのエネルギーが腹の底から湧いて突き動かされ、、、今に至る。
人とコミュニケーションをとるのは苦手だったけど、人のからだが自分の手を通してみるみる柔らかくなっていく感触がとても気持ちよくて、やればやるほど喜んでもれえるし達成感もあって、どんどん仕事ににのめり込んでいった。
先日陶芸体験で粘土を捏ねていたら自分の思い描いたイメージを形にしていく作業は楽しいし、気持ちがいいしで、集中しすぎて時間を忘れてしまった。
この感覚は仕事と全く同じだなあ、と思った。
違うところは粘土は自分で自分の理想の形には変化していかないということだ。
どんな形を作っていくかはお客様本人、
もともと持っている素材が最大限生かされるように、形成しやすい粘土のように柔らかく弾力があり適度に水気も含んでいて伸びがいい状態を維持できるようにアドバイスするのも仕事のうち。
そうすれば固くなりにくいし、人から捏ねてもらわなくても、自分で必要な時に最適な状態になることができるようになる。。。
、、、サロンにずっと通ってくれているお客様もたくさんいるのだけれど、心のどこかで、
「ずっと通っているってことはよくならないからなんじゃないか、喜んではいけないことなんじゃないか」ってどこかで思っていた。
よく「○○病院の○○先生にはずっとお世話になっているんです」という言葉を聞くと、
「ずっと通っているって、、、病気ずっと良くなっていないってことだよね?」と不思議に思ったりしてたしね。
だから新しいお客様でも何回か通ってもらって一通りアドバイスして、かなりいい状態になってきたら「だいぶいいのでもう来なくてもいいですよ」と伝えたりしていた。
尊敬する小児科医の真弓定夫先生は「医者なんか繁盛するもんじゃない」と語る、知る人ぞ知る名医だ。
薬も最低限しか出さない、食事など生活習慣を見直すことをひとりひとり丁寧に指導する、「医者にかからないように指導するのが真の医者」というあり方を貫いている。
当然儲からないが、患者主体の真の医療を求めて遠くから診てもらいに訪れる人が途切れない。
そんな真弓先生のあり方がワタシにとっての理想である。
ある時、一人のお客様から
「そんなこと言わない方がいい、また来たいと思っても来られなくなるから!」
と真顔で言われて、ビックリしたことがあった。
ワタシ的には「うちに来なくてもいい状態になった、本当に良かったですね!」という気持ちで言っていたんだけど。
想像するに、確かにお客様商売しているサロンで「もう来なくてもいい」と言われたら、そりゃ「へっ??😲」となるよねえ。
道理で「もう来なくてもいいですよ」と伝えるとみな一様に複雑な顔をしていたんだな~、と気付かされた出来事だった。
「ワタシのことを思い出さないくらい、からだの調子がいいこと」を心から願う気持ちと
「お客様に来てもらわなければ仕事にならない」(当たり前!)
という矛盾にどう対処して行けばいいのか?
どう自分を納得させればいいのか?
「お客様のために」を追求するんだったら「マッサージや整体を受ける必要がなくなる」状態を目指して行くのが正解ではないのか??
経営の勉強会などで、お客様単価を如何にあげるかとか、リピート率をあげるためにはどうしたらいいのか?などの話を聞くと、途端にどうにも苦しく複雑な気持ちになってしまっていた。
ワタシの仕事の場合、そこには如何に来させるか、如何に必要と思わせるか、という操作、コントロールが入ってしまうような気がしてならなかったからだ。
何よりそれはお客様のためにならないのではないか、という感じがしていた。
不調になった時にお客様が来てくれて成り立つ仕事でもあるので、「また来てくださいね」という言葉はお客様が不調になることを前提にする、願うことに繋がるのではないか?
意識が現実を創るってよく言われるし。
からだが不調だと誰もが不安だ。
そこに意識をフォーカスさせて操作コントロールしていくのはとても簡単。
それが先生と呼ばれる立場の人なら尚更だ。
整体師という仕事では、根本から人様の健康を願うことはできないのではないか、からだを整えることを考えるという時点で整っていないからだが前提になる、仕事を成り立たすことは不調な人が増えることを願うことにならないか?
実に因果な仕事だ、と思ってしまうのは私だけなのだろうか?🌀🌀🌀😵😵
そんなことをぐるぐる考えて、、、
自分を納得させる言葉や答えにはなかなかたどり着けなかった。
一度疑問を持つと自分で自分を納得させる答えが出るまでやめられないとまらない~~かっぱえびせん!誰か止めて~~。。
ああ~なんて面倒くさいワタシ!
ありがたいことに、
先日きたお客様がそのモヤモヤを吹き飛ばすヒントをくれた。
お客様からもらったヒント
そのお客様は慢性の肩凝りでかなりツラい状況だったけれど3ヶ月くらいの間に数回通ってもらって、からだから「楽になった!もう大丈夫!」という声がした(感じがした)ので、例の通り、「もう大丈夫だと思いますよ~」と次の予約は入れなくていい、とそれとなく伝えていたのだった。
そのお客様は来るなり開口一番、
「本当に楽になっておかげだった。そしたらからだが気持ちよさを求めるようになっちゃって!うずいてきちゃって~たまっている感じで、、スッキリしたくてまた来ちゃいました」
(※女性です!!念のため😅)
その言葉を聞いたら、思わず疲れを知らない精力絶倫男(笑)みたいになっちゃったワタシ。
「もっともっと気持ちよくしてやる~~🔥」
気がついたら施術時間も大分オーバーしちゃってて。
お客様は「こんなに丁寧にやってもらって!」と感激して帰って行った。
サービスしようなんて思いは全くないんだよ、お客様のからだの気持ちよさにフォーカスしたら自分も施術すること自体が気持ちよくなっちゃって時間があっという間に過ぎちゃっただけ。
今まで自分が勝手にやりたくてやっていることをほめられるたり感謝されるのはどこか居心地悪い感じだった。
ワタシの中には仕事とは、努力したり我慢して達成できるものこそ尊く、誉められ、認められるべきものなのだ、という思い込み、刷り込みがあって素直に受け取れていなかった。
でもワタシがやりたくてやっていること、好きでやっていることをやることが、そのままお客様のためにもなっていることなんだな、そのことだけを考えていけばいいんだな、と改めて気づかせてもらえた出来事だった。
からだに触れているとそこからいろいろなものが流れ込んでくる。
からだのつらさはその人の優しさそのものだったり、深い悲しみであったり、寂しさであったり、、、表面とは裏腹なその人の本質を感じることができる。
どんな人でも健気に頑張っているのが伝わってくる。
からだに触れていると人のことは怖くないどころか愛おしく感じてくる。
頭から出てくる言葉はウソをつくことがあるけれど、からだから伝わる言葉はウソがない。
ワタシはそこに触れていることが大好きだし、何より安心できるのだ。
人と触れ合う醍醐味みたいなものを感じられるのだ。
お客様の気持ちよさ=ワタシの気持ちよさ
「そこ」と共にあれるワタシは別に変な人でもないし、生きづらさ感もないし、まっとうな感じでいられるのだ。
わたしはわたしで大丈夫だと思えるのだ。
要はやりたくやりたくてしょうがないのだ!
やむに止まれずやってしまうのだ!
ああ、これこそ皆が求める天職というものじゃないか?
こんな感覚で仕事できるって幸せじゃないか?
💡なーんだ、別に悩まなくったっていいじゃない!
要はあれこれ考えすぎなんだよなあ、不必要なほどに。
、、、というか世の中に蔓延している、操作とコントロールするのが当たり前的な価値観を意識しすぎて、無意識にそこにはまらないと、合わせられないとダメだ、みたいに思ってしまっていたのかな。
思い起こせば昔、漢文の教科書にあった「学を絶てば憂い無し」という『老子』の言葉の意味を考えていたら、学校の授業や受験のための勉強に全く意味意義を見出だせなくなって、悶々としてたら結局高校にも行かなく(行けなく)なってしまった。
行動する意味意義を分からないと動けなくなってしまう、「それはそれ、これはこれ」という割り切った考えができないのだ。
でもそのお陰で、学ぶとは何か?の答えを求めて文学哲学思想方面のたくさんの本を読むことができたし、自分で考える力もついたと思う。
今から振り返ればムダなことなど何一つない。
端からみればどうでもいいこと、何でそんなことに悩んでいるの?と思われるようなことでも、これはきっと必要なことで、きっと未来の何かに繋がっている。
施術師として、どうしたらお客様がうちに通わなくてもよくなるのか?
からだ本来の感覚を取り戻すにはどうしたらいいのか?
をとことん悩み考えた末、思いついたのが、肌感覚を変えるきっかけになる【駒fun】だったし、からだ(いのち)が喜び輝くあり方、生活スタイルを考えていたら【伊那谷スタイル】という言葉になった。
止むに止まないこだわりととらわれが、いつもワタシを衝き動かして行く。
自分でももて余すその衝動こそがワタシそのものでもあったのだ。
こだわりは本人にとっても周りにとっても面倒くさいけれど、これがワタシの生きる道と思うしかない😅。
一つ一つ自分の中に生じた違和感や矛盾に対して納得してからでないと進んでいかない、それがアスペの特性の一つ。
みんながやっているから、という理由だけでは動かない、いや動けない。
その違和感や矛盾にいちいち対応していくのは本人にとっても周りにとっても面倒くさいことだったり誤解が生まれる原因になったりするけど、
よくよく考えてみれば、それが面倒くさかったり、腹立たしいことになってしまうのは、周りに合わせることが個人の納得感よりも優先される世の中になってしまっているからだよね。
アスペに社会性がないと言われるのは、自分の中での納得感を社会の常識や規範より優先してしまうから。
単純に楽しくてエネルギーが湧いてきて、自分らしくあれるからやる、やりたいからやる!それがアスペの仕事のモチベーション、そこに売上高が、とか顧客満足度が、という方面から考えてしまったから混乱していたんだ。
そんなこと言うと
「サービス業をなめるんじゃない!」
なんて言葉が聞こえてきそう😨
「お客様の立場に立って考えるのがプロ」
とか、
「ちゃんと目標設定して計画立ててそこに向かって努力することが仕事だ」ってね。
でもそれは「楽しくてエネルギーが湧いてくるから」が前提にあって始めて成り立つことだよね。
そこをすっ飛ばして、売り上げこそが価値、とばかりそこから仕事の意味や意義を見出だそうとしても無理があるし嘘っぽいし気持ち悪い。
これはアスペだけに限らないこと。
経営者の学ぶ勉強会でも経営理念の大切さを説いていた。
経営理念とはまさに事業を行うことの意味や意義、経営者自身が「やっていると楽しくてエネルギーが湧いてくること」を言語化したものだと思った。
それがなければ仕事って何の為にやるの?お金のため?生活のため?苦しんで無理してからだ壊してまでやって自分や周りは幸せ?社会に貢献できる?
アスペにとってはそれは学ばなくても、もともとあるものであり、もともとそこからしか動けないのだ。
そこから動いていれば周りが苦労と思うようなことも苦労でないし、すごい!と言われるような成果も難なく達成できてしまう。
もし純粋な喜びから生活したり仕事していたら都合が悪くなることがあるとしたら、それは誰にとってそうなのだろうね?
気持ちいいから、楽しいから、やってみたいから、そういう動機から仕事ができたら幸せだよね。サービスを提供する側も受ける側も。
そう考えていくとやはりアスペは最強なのだ、純粋動機からしか動けない😁😁
、、今後よくなったお客様には「もう来なくてもいいですよ」ではなく、こう言おう!
「気持ちよくなりにまた来てね~✨✨」
その時のワタシはしっぽブンブン振って目をキラキラさせて全身で「遊んで~💕」を表現している犬のようになっているんだろう。。
(ネコとイヌどちらが好き?と聞かれたらワタシはイヌ派です)
多分ワタシがその姿でいることが最強の顧客満足、社会貢献を発揮できる形態なのだ、、と、思われる😁。
、、ん?しっぽを振る犬、という表現は人におもねるという意味もあったよな?
、、
ということは、この表現は読む人に誤解されるのか??なんてあれこれ考えはじめるとまたぐるぐる🌀🌀が始まった、、
ああ~ホント面倒くさい~😅😅
※南方熊楠は横一面男、宮沢賢治は縦一筋男、と表現した二人のM・K評伝はまさにADHD的ASD的特徴(変態っぷり!)が分かりやすく表現されていると思う。
面白くて再読中😊