ある音を聞いてそれが音階のどの音に相当するのかわかったり、あるメロディを一度聞いただけで再現できてしまうような能力を絶対音感というらしい。

ピアノを習っていた子供の頃、1ヶ月に一度教室の生徒が集まって聴音のレッスンがあった。
先生がピアノで同時にいくつかの音を出して、生徒はその音を五線紙に記入する。

私はそのレッスンが大好きだった。理由は誰よりも早く誰よりも正確に正解を答えられたからだ。

「あけちゃん、すご~い!」という尊敬と賞賛の声と、先生の私を見る目の輝きと、先輩格の生徒の焦りと苦しさの入り混じった気持ちとかがいっぺんに流れ込んできて、喜んでいいのか悪いのか、わからなくなっていつしか答えが直ぐにわかっても「わからない」ふりをするようになった。

自分一人わかっていればいいや、と自分で自分を納得させた。

わたしが喜んだり嬉しかったりすることで、誰かが暗く悲しくやるせない思いになる、ということが耐えられなかった。

今から思えば人を欺くと同時に自分をも欺いてきたんだなと思う。

わたしの存在が何か罪深いものに感じられた。

いつからかレッスンも「楽しい」から「やらなきゃ」という義務感に変わり中学1年の時に勉強との両立が大変だから、という理由でやめることになった。

普段褒めることのなかった先生が(昔のピアノの先生は厳しかった)心から惜しんで残念がって「もったいない」と言ってくれたことを今でも忘れられない。

その時は「先生も生徒が減ると困るからでしょ」なんて強がっていたが、本当は先生が私の中に才能を見いだしていてくれたことも感じていたのだ。

練習できないでレッスンに行った時の先生の苛立ちが怖くて苦しくて、それにうまく応えられない自分がふがいなくて悲しくて逃げたくなったのだ。

視覚聴覚嗅覚触覚過敏の他に人の感情に特に敏感に感じてしまう子供だった。(味覚過敏はなくて逆に鈍い方かな)

ひとつひとつ自分の感覚に蓋をする毎にひとつひとつ自分の生きられる世界を失っていった。

自分を抑えて生きることは息を潜めてなるべく息をしないように生きることに似ている。

いつからかマイナス感情を発している人に対して、何も感じない自分になりたいと、願うようになった。

感じても何もできない自分に苦しむくらいなら感じない方が相手にも自分にもいいと思ったんだろう。

いじめを受けても自分が悲しいより前にいじめる側の苦しさを感じてしまって苦しくなった。

よくいじめはいじめる方が絶対悪い、というけれど、もちろん表面的にはその通りだけど、本当は人をいじめることでしか、人を不快にさせることでしか自分の心を保てない人間こそが苦しく悲しく哀れな存在なのだ。

人間が生きていくということはどうしようもない苦しみと悲しみが根底にある。。。

蓮の花を見ていたら苦しみと悲しみこそが美しい花を咲かせる滋養になることを蓮の花が体現しているのだと感じた。

だから仏像の周りには蓮の造形物が配置されているのだ。

絶対音感は3人の子育ての頃、テレビのコマーシャルで出てきたメロディを子供にせがまれて直ぐにピアノで再現するときに役にたった。

子供の素直な「ママすごい~」という誉め言葉は嬉しかったな。

素直に喜べる自分が嬉しかった。

子供は親を助けるために親を選んで生まれてくる、と聞いたことがある。本当にそうだ、と思う。

絶対音感に近い感覚が絶対触感とも言いべきものだ。

よくお客様からどうしてここが辛いって触ってわかるの?と不思議がられるが、どうしてどの音なのかすぐにわかるの?と聞かれるのと同じような感覚だ。

わかるからわかるとしか言いようがない。

そしてその辛さの中に悔しさもどかしさややるせなさ情けなさ重苦しさ、、、言葉にならない声がきこえてくる。

時々マッサージしていて泣けてくることがある。
からだからその事を伝えてあげて、と促されている感じになる。

時にはからだからきこえてくるものを言葉に変換して伝えることもある。

伝えていいかどうかもからだが教えてくれる。

今は聞きたくないと言っているからだもある

人は感性を閉じたままでは生きられない。

生きられたとしてもずっと満たされない欠乏感を抱えたまま、息苦しいまま生きていくことになる。そしてその息苦しさが高じて人に向かえばいじめになり、自分に向かえば自分をいじめること、自ら殺すことになる。どちらも元は同じなのだ。

一人一人が自分が何を閉ざして生きているのか、気づいて開いていくことでしか人間として本当に生きる(息する)ことにはならないのだと思う。

からだに触れて聞き取れる絶対触感ともいうべき感覚と、それを言葉に変換するかどうか絶対語感ともいうべき感覚は、子供の頃に閉ざしてしまった世界から、あの苦しさと悲しみの中から生まれてきたものだと思う。

だから今は、怖かったピアノの先生にも、悔しそうな目で睨んだ伴野さんにも、わたしを執拗にいじめた恵里ちゃんやあっきーにも、そしてみんなの苦しみに対して何もできない自分に絶望したあの頃のアケミにも、懐かしさと感謝しかない。

時々思い出して幸せであってほしい、とこころから願っている。

大人になってからでも苦しいことや悲しいことはあるけれど、わたしがわたしをあきらめない限り、いつかそれは懐かしさと感謝と幸せを願う祈りに変わるのだ。

そしていつかあの世へ行く時にはすべてこれでよし!と呟やくのだ。

生きている間に起こることはすべてそのためにあるのだし、人として「生きる」ということはそういうことなのだ。

すべての人が天性の感性のまま素直に生きられますように。

今は感じられなくなっても大丈夫、からだが行くべきところへ連れて行ってくれる。

人はみないつか仏になる。そう、死んだら誰でも仏様。

からだがあると生きている間は仏にはなれないけれどもたまには仏になったような気持ちになれるよ。蓮の花が教えてくれた。

それも自分の感性をそのまま生かせているおかげ、生かさせてもらっているおかげ。

お客様は神様でもあり、仏様でもあったんだ。ありがたいことだ。