「ふんどし、駒fun!」の情熱はどこからくるのか?
駒funストーリー、その8まできました!
わたしにしてはよくやった!
最後になんでここまで「ふんどし、駒fun!」って言っているのか、この情熱はどこからくるのか?書いてみます(整体師として、駒ヶ根伊那谷ファンとしてより、さらに深い個人的部分からくるものです)
「ふんどし(感覚)こそこれからの世の中に必要!」と確信して発信しはじめた時、ある人から
「シャネルでふんどし発売したらはくよ」と言われたので
下着の有名なブランドのものを使いたいのかな、と思って
「シャネルは知らないけどワコールはふんどしっぽい下着を出してますよ」と答えました。
最初は??、シャネルとふんどしはくことに何の関係があるのかよくわかりませんでした。
後で、その人からはやんわりお断りされたのだ、とわかりました。(アスペルガーの特徴で言葉の意味を字義どおりに受けとめてしまいます。冗談が通じにくいのです)
駒funが有名ブランドになったらその人はなんていうのだろう?ブランドが自分の選択の基準なのかな?
その時思ったのは
ふんどし、駒funの普及は他人軸の生き方から自分軸の生き方への転換のきっかけになるのではないか、ということでした。
つまり外側の枠、価値観に自分を合わせて当てはめて生きる方向から自分の感性に基づいて生きる方向への転換を、からだ感覚から応援できるのではないか、ということです。
ふんどしって1枚の布にしか過ぎない、パンツのように形がない、締め付けないで自分のからだに合わせて身につけられる。自分で形を決められるのです。自分の人生をみずからデザインする感じです。
、、、、
振り返れば今まで社会にでて人と関わるのに矯正下着を身につけているような感じで不自由で息苦しかった。
周りに合わせなければならない、自分の感覚は脇において大多数が良しとするものを良しとしないと仲間に入れてもらえない、認めてもらえない、と思いこんでいたから。
その一方で自分の感覚に正直に誠実に生きていきたいという切実な想いもあって、その矛盾に苦しみました。
幼稚園の時から登園拒否、中学3年の時から学校に行けなくなり、一年遅れて入った高校も3ヶ月で行けなくなり、、、引きこもりました。毎日家で本ばかり読んでました。本がお友達でした。
集団行動が苦手で周囲に合わせることにエネルギーを使い果たしてしまい、疲れはててしまったのだ、と今ならわかりますが当時は「なまけ病」と言われ人間失格の烙印押された感じがしました。
あれから40年、わたし自身が苦しんだことが今は社会問題になっています。
学校に行けない、行かない不登校児、自殺や鬱病、引きこもり、ニート、、、、
医学がこれだけ進んでも病気は増え続ける。
自分の感覚を鈍らせて周りに合わせる生き方はもう限界が来ていると思うのです。
話が大きくなってしまいました、、、
要は一人一人が気持ちいいなあ、あったかいなあ、楽だなあ、という感覚に意識を向けることが、自分の感覚を取り戻し大切にすることにつながり、それが人の感覚を大切にすることにつながり、みんなちがってみんないいんだ、という意識につながり、その意識が様々な社会問題を解消するためのひとつの道すじとなるだろう、と確信しているのです。
福島正信さんの著書「わら一本の革命」(自然農を志す人のバイブル的書)を思い出しました。夢中になって読んだな。
「ふんどし一枚の革命」
これからも進めて行きます。
「ふんどし?え~やだ~!、ありえない!」
を
「こんなに楽で気持ちよかったんだ~!」
に変えていきたい。
伊那谷スタイルの活動そのものが、わたしにとっての「革命」だったんだ、今書いていて気づきました。
一緒に活動してくれる仲間にこころからありがとう、と言いたい気持ち。
駒funブランドが旗標の伊那谷スタイルの活動はこれからもふんどしのように形にはまらず、ゆるやかに、どきどき中身がはみ出しちゃっでもご愛嬌で大丈夫、人との出逢いから生まれる化学変化を楽しみながら活動していきたいと思っています、その化学変化が伊那谷スタイルそのものだったんだな。。。
ここまで読んで下さってありがとう😊😊
、、、おわり